私が大学病院に勤務していた1980年代初め、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(以下MRSA)による感染症が病棟に多発、その原因を調べたことがあります。判明したことは「ある種の広域抗菌剤、治験薬を長期間使用する」、「特定の医師が頻回に訪室する病室に多く起こる」と言う事実でした。新薬である広域の治験薬使用には患者さんの病状を感染グループの責任者と教授に説明、許可をもらうと言う手順が必要でしたが非常に効くので次第に使用頻度が増加、それに伴ってMRSA検出頻度も多くなったとの記憶があります。その後、薬剤耐性グラム陽性球菌であるバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)、多剤耐性緑膿菌(MDRP)などによる院内感染が大きな社会問題になってきました。院内感染マニュアルの整備された現在、抗菌剤の適正使用、感染経路対策、消毒・滅菌対策などによる院内感染制御は当たり前のことですが、それでも薬剤耐性菌の院内感染が防げない時があります。今回は薬剤耐性について考えてみます。
細菌、ウィルスなどの病原体によって引き起こされる疾患を感染症と呼びます。最近はウィルス感染症である新型コロナウィルス肺炎が大きな社会問題になっていますが一般病院で多く遭遇するのは細菌感染症、特に肺炎と尿路感染症です。細菌の増殖を抑制、死滅させる薬剤は抗菌剤、又は抗生剤とも呼ばれます。病原体に対して感受性のある抗菌剤が効かなくなることを薬剤耐性(以下AMR:Antimicrobial Resistance)と言います。ウィルスでもオセルタミビル(タミフル)・バロキサビル マルボキシル(ゾフルーザ)耐性インフルエンザなどの薬剤耐性ウィルスがありますが臨床上重要なのは細菌のAMRです。特に1980年以降、世界中で薬剤耐性菌が増加、耐性菌の市中感染も増えています。その為、以前は適切な治療で回復した感染症の治療が難しくなり乳幼児、高齢者、ガンなど免疫力の弱い人では重症化、死亡する可能性が大きくなります。事実、このまま放置しておくと2050年までには薬剤耐性菌による死亡者数は全世界で1000万人を越えるとの予想もあります。
細菌感染症に抗菌剤を使用すると感受性のある細菌は消失、AMRを持つ細菌が残ります。AMRを持つ細菌が体内で増殖、他の人に感染すると治癒する確率は大きく低下します。抗菌剤の不適切な使用はAMRを助長します。抗菌剤の適正使用として1998年に提唱されたのがPK-PD理論です。抗菌薬の体内動態から適切な用法、用量を決める方法で現在、抗菌剤適正使用の基本となっています。すなわち抗菌剤には濃度依存性に効果を示すタイプと、最小発育阻止濃度(以下MIC)を長期間維持することで効果を示す時間依存性のタイプがあります。濃度依存性の薬剤は1日1回の点滴で薬剤濃度を高くした場合、時間依存性の薬剤は1日3-4回の点滴で薬剤濃度を細菌のMIC以上に長期間維持した場合に有効になります。薬剤耐性菌は抗菌剤をMICより低濃度で長期間使用した場合に発生します。すなわち感染症を治療する場合、医師はまず感染症の起因菌を想定、感受性のある適切な薬剤を選択、適切な量を適切な投与方法で適切な期間使用することが求められています。具体的には治療開始3日後、治療効果を判定、抗菌剤が効かない場合、又は想定外の起因菌が判明した場合は抗菌剤を変更、抗菌剤開始後14日以内で治療を終了することが原則とされています。
現在、世界的に薬剤耐性菌が増加していますが新しい抗菌剤の開発は難しい状況にあります。この原因として近年、先進諸国の国民の死因が感染症から高血圧、糖尿病、脂質異常症、脳梗塞、ガンなどの非感染性疾患に変化、製薬メーカーの新薬開発が非感染性疾患に多く向けられたこと、1960年―1980年代のめざましい抗菌剤開発の進歩で新たな抗菌剤の開発が限界に近い状態であること、抗菌剤は投与期間が短く莫大な開発費に較べて利益率が良くないこと、更にはジェネリック医薬品の台頭で新薬開発へのメーカーの資金力も低下していることなどが考えられると思います。もちろんマラリア、コレラなど感染性疾患でアフリカ、東南アジアなどを中心に多くの人が死亡している事実はありますが、この流れは今後とも変わらないと考えます。
細菌は30-35億年前に発生したとされます。人類の誕生は300-400万年前ですので人類は誕生の時点から細菌に遭遇してきたと言えます。現在、全世界的で薬剤耐性菌が増加しています。薬剤耐性菌による死亡率を下げるには抗菌剤の適正使用、院内感染制御により未来に使用できる抗菌剤を残すことが重要です。更には我々医療従事者も含め国民全体がAMRの意味するところを理解し、感染予防のため手洗い、ワクチン、免疫力を維持する生活習慣などに注意することが必要と思います。